真っ白な館

思い付いたことを書きます。

吉田博嗣「やすお」の秀逸なおぞましさについて

日記:どうでもいいが、はてなブログでの記事執筆方法は未だにはてな記法をえらんでしまう。

本題。
comic-days.com
本作では、愛子は姉から送りつけられた「やすお」と生活を送る中で彼女の自己中心的な性格に直面しつつ、「やすお」が壊れるタイミングで読者に「やすお」の正体(人口からランダム抽出された人間を「半機械」化した存在で、そもそもが元々人間)が明かされる。アンドロイドものと思いきやディストピアものだった、という種明かしがされたあと、更に愛子の内心の葛藤が明かされるところで話が終わる。
この短篇が巧いのは「愛子の問題が何一つ解消されていない」という点だ。
愛子は自分もまた「やすお」と同じ存在である「はなこ」になる運命だったので(それを親のコネでどうにか避けることができた)、「やすお」に対して倒錯した感情を抱いている。彼女は親や姉に対してコンプレックスを抱える反面、「やすお」の一件では絶対に逆らえないしむしろ負い目がある。「やすお」は自分だったかもしれないが、それを認めると自分が平均的な人間であることに直面せざるをえない。そういった意味で、「やすお」は絶対に受け入れることのできない存在である。「やすお」と自分は違う存在だと示したい、誇示したい。だから彼女は、「上位存在である愛子様」として振る舞うことで「やすお」とは違う特別な人間であろうと虚勢をはる。そのことが「やすお」をぞんざいに扱うことに繋がる。
理屈は通っているように見えて、ここにはもちろん転倒がある。「やすお」だけであればともかく、恋人に対してあそこまで暴力的になるのはどう考えても愛子の人格の問題だし、姉の香織は愛子よりも「やすお」のことを大事に扱おうとしているあたり、愛子よりも人格として優れているような描かれ方をしている。当たり前だけれど、愛子の性格が悪いのは愛子の問題であって、「やすお」とは全く何の関係もない。
たとえば、「やすお/はなこ」制度のシーンでいう「私が選んだみたいじゃん」という言葉。このページだけ読むとまるで愛子が「やすお/はなこ」制度に反対だったような台詞に思えるが、考えてみてほしい。愛子が「やすお/はなこ」制度に反対するような人間だろうか? ストーリー内の描写だけで推測するなら、愛子はまず絶対に「自分は特別だから自分には関係ないこと」と考えてこの制度に賛成する側だったと思うのだが。ここまで短絡的で人格の人間が「やすお/はなこ」制度に忌避感を抱くのであれば、そのきっかけは自分が「はなこ」になりかけたというところに起因すると考えるのが自然ではないか。自分が当事者になった瞬間に物事への認識が変わることは至極まっとうな感覚だが、同時に特段優れた倫理観というわけでもない。
この話は「読者にとって気持ち悪い」制度の話を出したあとで愛子に「間違いを認識できても立ち向かう力のないふつうの人間で ごめん」と独白させる。この台詞がものすごく秀逸で、『「やすお/はなこ」制度に反対できなくてごめん』という(一見して)正しく見える感覚と、『わたしは自分のふるまいが間違っているとわかっているのになおせなくてごめん』という自己中心極まりない開き直りを同時に肯定しているのである。そのような自己反省に欠けた独白自体が愛子のエゴと幼さの産物であり(この台詞の際のキメ顔だよ!)、それを象徴するのが夢のなかで行われる会話だ。
「犠牲になってくれてありがとう」。ここでの「ありがとう」は「やすお」が最後に言った「ありがとうございました!」に対応する台詞だけれど、そもそも「ありがとうございました」という言葉を額面通りに信じているあたりも想像力が欠如している(「やすお」に自我が残されているのかも明言しないのもこの漫画のいいところだ)。大体、本名も知らない相手と「対等の友人」もクソもないし、そもそも愛子が言うべきは「ごめんなさい」ではないのか。
そういった、作品構造やストーリーの展開・締め方が全部「愛子の欺瞞的・自己中心的な性格」を浮かび上がらせる機能を備えている。キャラクターの欺瞞が作品構造に織り込まれた、技巧的な傑作だと断言する。