真っ白な館

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「恋の魔法」としての等身大の冒険 『すずめの戸締まり』感想

前回の記事で書いたとおり、7日(月)に『すずめの戸締まり』を観てきたので、本記事はその感想である。
whiteskunk.hatenablog.com
以下ネタバレあり(どうでもいいが予告編に対するネタバレ感想を注釈に書いた→*1)。
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鈴芽視点では巻き込まれ型ロードムービーだが、枠組みとしては東北の震災で親を亡くした子が、その欠落を乗りこえる話として捉えることができるという捻りがある。鈴芽はあくまで草太を元に戻す(後半では常世から連れ戻す)ために旅をする。それに対して、視聴者は3.11の震災の記憶をなぞるように錯覚する(保護者である環さんが、鈴芽が東北の生家に戻ろうとすることに何らかの意味を見出そうとするように)。そして、「草太を常世から連れ戻す」という部分でオーバーラップするのは母の存在である。幼少期の鈴芽が常世で出会ったと思っていた母親は未来の自分自身であり、実のところ常世に母親はいなかったことがわかる。そして、母の死は明示的には描かれない(震災で多数の行方不明者が出たことは言うまでもない)。「草太を喪うことが怖い」と語る鈴芽は、既に不可逆的な喪失として母親の死を抱えているのだが、本作がおもしろいのはこれをトラウマの話に回収しなかったことである。草太と母親の死を絡めて、母の死を乗りこえる話にしようと思えばいくらでもできた筈で、しかし本作はそれを避けている。母親の死は鈴芽にとって「既に受け入れたこと」として描かれ、鈴芽が草太と出会った「今」の問題、鈴芽と環さんとの間に「今」起きている関係性の問題に対し、物語は常にフォーカスを当てている。等身大、という言い方はありきたりかもしれないが、その姿勢は鈴芽の人生に対して極めて誠実である。
さて、『天気の子』でも感じたことだが、新海作品は体感的な時間経過がほとんど感じられないという不思議な特徴がある。『天気の子』では前半一時間で二ヶ月が経過し、後半一時間で半日程度が経過する。本作を観た後に小説版の目次を開き、本作が作中(九州の地元で草太と出会い、駅で別れるまで)で6日間しか時間が経過していないことに驚かされた。具体的には以下の通りである。
・1日目:出会い~フェリー乗船
・2日目:四国で後ろ戸を閉じ、千果の民宿で泊まる
・3日目:ヒッチハイクでルミに拾ってもらい、神戸で後ろ戸を閉じる
・4日目:新幹線で東京に行き、東京で草太が要石になる
・5日目:草太の祖父と会い、芹沢の車で東北の生家跡に向かう
常世常世へ行き、要石を刺す。
・6日目:駅で別れる
この僅かな時間でラブロマンスを成立させているのがフィクションの持つ魔術なのだが(とはいえ、ストーリー展開が単調という向きはあろう)、この魔術を成立させているものの一つが「草太が椅子になってしまうこと」である。昔、『言の葉の庭』を観たときに「新海誠が詐術を覚えた!」と思ったのだが(いわゆる「現実的」なリアリティ水準であの作品を観た時に、二人が再会して結ばれることはないと思われるが、しかしそれを信じさせてくれる強度があの作品にはある)、ここには同様の詐術が働いている。大学生であり教師を目指している草太の日常は本作では描かれないし、描かれないことによってある種のミステリアスさを生んでいる。それをキャラクターとしての深みの欠如と捉える向きもあるかもしれないが、そうすることによって「鈴芽が草太を好きになる理由」が成立している。それは、「恋の熱を冷めさせる現実」を描かずに済むことである。ミステリアスなベールを被せるという意味において、それは恋の魔法なのである、とは言い過ぎだろうか(来場者特典「新海誠本」に掲載の企画書前文にも書かれているが、本作が「蛙になった王子」の変奏であることを監督本人は意識している)。『秒速5センチメートル』において、ファンタジーとしての恋物語を否定した態度と、このことは一環している。僅か6日間の中で恋を成立させるにはファンタジーが必要であり、ファンタジーの土台として本作の冒険がある。恋には魔法が必要なのである。新海誠監督は、その点で実のところシビアな価値観を持っているのだな、と感じた。
ところで、女子高生に座られたり台として乗られたり局所的に強力なフェティシズムが入っててすごかった。映像的にはあんまりその辺深掘りしなかった辺りが余計フェティシズムみを強めてて名状しがたい感情に襲われた。

*1:予告観返してみるとマジでストーリーに忠実に作ってるな。びっくりした。