真っ白な館

思い付いたことを書きます。

何かを語ることの難しさ、あるいは『ジョーカー』から見る社会反映論の落とし穴

とある記事に対するはてブでこうコメントした。

ジョーカー、「彼が狂うのには理由があったんだよ」と「狂っているやつは最初から狂っているんだよ」の両方を提示してるのが巧妙で、どちらか片方の立場でのみ共感すると落とし穴が待ってる映画だと思う。

要点はこのコメントで事足りるけれど、書きあぐねていた感想をアウトプットできそうなことに気づいたのでもう少し筆を割く。
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公開翌日に『ジョーカー』を観に行ったのだけれど、すぐに感想をまとめることができなかった。それは本業の忙しさとか、読み物仕事にまつわるあれこれでまとまって文章を書くことにストレスを感じていたといった様々な事情もあったけれど、一番の理由は「何を言っても的外れになるのでは」という危惧だった。
観に行く前から、『ジョーカー』の予告は何十回と観た。なにせ、「あの」ジョーカーだ。二一世紀の日本でなら『ダークナイト』でのヒース・レジャーの怪演が最も有名だが、自分が真面目にアメコミを摂取していた2010年~2014年に触れた邦訳アメコミでも様々な顔を見せてきた。『ダークナイト・リターンズ』では、バットマンが引退した後精神病棟で完治した筈が、老年になって復活したバットマンに伴い再び彼の前に立ち塞がる。『バットマンアーカムアサイラム』では、アーカムアサイラムの職員達を人質に、バットマンアーカムアサイラムにただ招き、まるでバットマンの友であるかのような親しみを以て、彼を狂気の淵に引きずり込もうとする。あるいは、ブライアン・アザレロの『ジョーカー』において、ジョーカーはおそろしい犯罪者として描かれると同時にどこか人間みを感じさせる。そのラストにおいて立ち塞がるバットマンの方がより理解しがたい(この作品ではバットマンが「からかう」側だ)。他にも、『バットマン:ラバーズ&マッドメン』における、天性のカリスマ犯罪者としてのジョーカー。『バットマン・アンド・サン』で、偽バットマンに頭を撃たれた後も病院の中でバットマンをからかおうとするジョーカー。『バットマン:ノエル』では、『クリスマス・キャロル』の変奏たる同作における「第三の訪問者」、バットマンに死後の未来を見せんとするジョーカー。

DARK KNIGHT バットマン:ダークナイト(ケース付) (SHO-PRO BOOKS)

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バットマン:ノエル

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ジョーカー[新装版] (ShoPro Books)

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バットマン:ラバーズ&マッドメン

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バットマン・アンド・サン

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先行作を挙げ始めるときりがない、様々な顔を見せてきた「あの」ジョーカーの、オリジンである。楽しみにしないわけがない。その一方で、予告に不安を抱かなかったと言えば、嘘になる。不安だった。少なくとも、予告編で垣間見えるジョーカーは、あまりにも「説明がつきすぎる」。日々を必死に生きながら母親を養い、その中でコメディアンを夢見る男が、次第に社会から転げ落ちていって、バットマンブルース・ウェインの父親に殴られたりしながら、やがて狂気の底に落ちていく……。これくらいのイメージはさっと浮かぶ。率直に言って、「ありがち」な話である。社会的弱者が復讐のために凶行に走る。よくわかる。でも、それが「ジョーカー」としてどうなのか、気持ちが、頭の片隅でどうしても拭えなかった。ヒース・レジャーが、ブライアン・アザレロが、様々なライターたちが描いてきたジョーカーは、狂気に理由がないからこそバットマンの宿敵たりえたのではないか*1
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実際のところ、蓋を開けてみると杞憂だった。このジョーカーはとてつもなく魅力的だ。ホアキン・フェニックスの怪演は言うまでもないが、基本的に、アーサーは「弱い」。メイクをしながら涙を流すアーサー。悪ガキ共にボコボコにされるアーサー。夢が叶わないなりに母親をがんばって養うアーサー。3人殺したあとに走って逃げるアーサー。警官から一生懸命走って逃げるアーサー。司会者との問答を最終的に銃で終わらせるアーサー。パトカーの中で涙を流すアーサー。そこで描かれる人物像は、どうしようもなく「小物」である。そして、その弱い人間が、とてつもない邪悪に落ちてしまうということに、その邪悪さが車の上でダンスを踊るシーンに集約されるということに、強烈なカタルシス、爽快感が生まれているし、その意味で本作は間違いなくオリジン=誕生譚だ*2
普通に生きる人であっても巨悪に落ち込んでしまうということに、あるいはその過程で描かれる極端なまでの貧富の差、格差社会の描写に対して、視聴者がジョーカーに同情し、共感する……だけど、本当に? 彼は本当に「普通」の人間だったか? 少なくとも、この映画は、アーサーの普段の生活に「普通/正常」から一歩外れた姿を忍ばせている。大多数の人間は日常的に七種類の精神薬を服用していないだろうし、公衆の面前でいきなり大爆笑しはじめたりしない。その上、コメディアンを目指しながら、スタンダップコメディの笑いどころがわからない。そもそも、あの耳障りでひどく通るあの末恐ろしい笑い声。彼がエリート社員を三人殺す前から、既に「普通」から外れていたのではないか……ということを、本作はこれでもかというくらいに示唆している*3。それらの要素は、明らかな「ジョーカーに落ちる素質」である。素質があろうとなかろうと社会は人間が転げ落ちたりしないようにサポートするべきだと自分は考えているけれど……とこれ以上は社会論に踏み込んでしまうのでやめておくが、ともかく冒頭のコメントに戻る。
貧困に苦しむ弱者が社会のせいで悪に落ち込むという話に落とし込もうとすると、アーサーが既に「普通/正常」の道から踏み外している事実を取りこぼすし、元々いかれていた奴だったんだよという話に落とし込むと、逆に彼がそれでも日々の生活を送っていたし、彼の背中を押してしまったのは彼を顧みない社会であった(富裕層の象徴たる人物は、よりにもよってあのトーマス・ウェインである)という事実を取りこぼしてしまう。上述のようにジョーカーものとしての是非においても同様だ。社会反映論とか弱者男性の話とか、身近な問題に引きつけるのがものすごく容易な反面、引きつけて何かを語った瞬間に別の顔を覗かせる。その多面性がおそろしくもあり、巧妙であり、つまりは本作がいい映画であることの証左なのだと思う。
なお、ここまで書いた以上自分のスタンスを表明すべきなのかもしれないが、自分は未だに、この映画をどう捉えるべきなのかがわからない。少なくとも、ジョーカーの「オリジン」=「ジョーカーではない」人物=「アーサーという一個の人間」の話として、ちゃんと映画を観る必要があるなと強く感じる。ちょっとBGMがくどくない? とかいったことは気になるので、もう一回観ておきたいところ。
個人的に一番ぞっとしたのは、アーサーが自宅で銃を玩んでいる時、銃口を普段母親が座っている場所に向けていたことだ。

*1:ちなみに、そういう論調でジョーカーを否定する時点で不明の誹りを免れない。アメコミがオリジンをいくつも許容できるという長所を理解していないし、そもそもどれだけジョーカーを知っているんだという話にもなる。ぶっちゃけティム・バートン版観てないんですよね。邦訳のジョーカーしか知らない人間が何を言うのか、という向きもあろう。そもそもジョーカーは60年代にコメディリリーフ的な役割の存在だっただろ何言ってんだ(Wikipedia知識)、という反論を返されるとなすすべもない。

*2:ジョーカーのオリジンであると同時に、バットマンのオリジンになっているのも巧くて、血縁関係が否定されても、本作においてアーサーとブルース/ジョーカーとバットマンは紛れもない兄弟だ。

*3:一応補足しておくが、ここでの「普通ではない」という表現に、「それが社会的に認められない」という意味を自分は一切含めていない。