真っ白な館

思い付いたことを書きます。

宮田眞砂『夢の国から目覚めても』について、あるいは現実の中で夢を見ること

「真摯」、という言葉がまず脳裡に浮かびます。「百合小説の、百合小説による、百合小説のための新たなる金字塔!」と帯で銘打たれたこの作品においてまっさきに出てくる主語が「百合」なのは言うまでもないのですが、その為その問題は一度棚上げして文をすすめていきましょう。

私たちは同じ夜に同じ夢を描いている。(p.21)

この作品は、百合同人漫画サークルを組む女性二人組・有希と由香を巡る物語です。前半では有希が相方の由香の天真爛漫さに翻弄されながら、異性愛者である彼女に思いを打ち明けられず(出会った当初、由香には彼氏がいた)懊悩する姿が描かれます。そして後半では、決定的な変化が訪れた二人の関係とその変化を、由香の視点から描いていきます。
「変わっていくことへのおそれ」と「それにどう向き合うか」は本作の主軸のひとつです。それは、有希にとっては「由香との関係性が変わること」であり、後半の由香にとっては「変わっていく未来への不安」です。考えていることや感じていることは時に通じ合うこともあればすれ違うこともある。そんななかでどのように進めばいいのか、歩いていけばいいのか。

だってどんな思いも、いつかは必ず覚めるから。(p.121)

向いてる方向が同じでも隣にいるのは他人であり、隣にいるひとの関係が変わらなくても、隣にいるひとは刻一刻と変わっていく。夢が現実になることもあれば、現実になったことで生まれる不安がある。その不安の大元は、(少なくともこの作品において)彼女たちが「女性」であること、ひいては「女性が女性に恋心を抱くこと」、「女性が百合を描くこと」、そして「その状況を取り巻く社会」に起因します。*1

ごきげんよう、お姉様。
その国の外は夜ですよ。
わたしたちの、世界じゃない。(p.206)

美しい物語です。ときめく筆致です。夢見るような作品世界と言ってもいいでしょう。しかしそこにはかっこたる「現実」が存在感を放っていて、「だからこそ」彼女たちは夢を見るために百合を描きます。その上、終盤の展開を見るだに、百合というフィクションに託すものすら二人の間では異なる。
それでも、この作品における「夢」は、「代替」ではありえるかもしれないけれど、決して「逃避」ではない。百合という「夢」の横に佇む二人の関係性という「現実」。

――だから。
わたしは百合を描きはじめたんだな。(p.206)

「どうして百合を描くのか」ということ。この夢見るような作品がアクチュアリティを獲得している理由は、そういったことに真っ直ぐ向き合っていることにあるのだと思います。

余談

なんというか、これを読んだ時、Twitterでいつものテンションで「いい……」「百合……いい……」って言ってる場合じゃないなと思ったんですよ。久々に。ドキュメンタリーの感想を書くときみたいに「この二人がここでこうしていることがこういう機能を果たしてこうだから云々」で語るのは簡単だったと思います。そしてそのような筆致で叶えられることは、機能の問題として確かに存在する。*2でも、この作品にとって自分が与えてくれたことは想像以上に大きかった。
何かの言葉でまとめてしまうととりこぼしてしまうものがたしかに存在し、とりこぼしてしまうものをひとつでも多く拾い上げるために言葉は存在する。物語に対して、作品世界のキャラクターに対して、彼女ら彼らが生きることに対して真摯であるためにはどうしたらいいのか、ということを久々に痛感したのが本作でした。ちょうど百合を書いていたところなので背筋が伸びました。みなさんやっていきましょう。

*1:ここでの「社会」は一旦「読者が実際に生きている現実の社会」と切り離すものとします。現実の似姿ではあることは間違いないのですが、社会問題の反映として本作を語ることの覚悟と準備が自分にはまだ足りない。

*2:ひとに何かをすすめるときは一番キャッチーな要素をシンプルにまとめる、とかね。