真っ白な館

思い付いたことを書きます。

技法と構成におけるラテンアメリカ文学の極北——ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』

以前、TwitterNetflix新興宗教ドキュメンタリーの話をしていたら「こういう面白い感想が書けるようになりたい」という反応をもらったことがあり、そう言われたこと自体は大変嬉しいけれど、実際のところ俺の感想が面白いわけじゃなくてその作品が面白いだけなんですよね。なぜかというとネタバレをガンガンやっているから。俺がドキュメンタリーに感じている面白さとは「フィクションでは『唐突すぎる』と怒られそうな展開が、現実ではガンガン起きていることの驚愕と衝撃」なのであり、そしてこれは俺の文章力・言語化能力の問題だが、フィクションの感想と違ってノンフィクションになると「俺が一体何に驚いたのか」を書き連ねようとするので、ネタバレに対するハードルを自然と下げてしまう。結果ネタバレをガンガンしてしまう。面白い感想を書く一番簡単なポイントはネタバレなわけだ。
しかし、ネタバレというものが本当に駄目なものなのかというのもそれは作品によりけりかなぁ、という思いもあり、たとえばリアルタイムで連載されている作品のネタバレは控えるべきであろうけれど、古典作品はもはやネタバレもクソもないよねという話はあり、もっと言えば「日本語では読めない作品」の紹介はむしろどういう話なのかを紹介するのに意義があるのではないか、その意味で90年代~2000前半までラテンアメリカの未訳小説を数十作と紹介した安藤哲行氏はすごいんだよ『現代ラテンアメリカ文学併走』はみんな読んだほうがいいぞ、などといったことを考えてしまう。
なぜこのような話をしているか。そういうことを思いつつも、以下の『夜のみだらな鳥』の感想はあらすじをがっとほぼほぼ丸々説明しているからです。この作品が如何にすごいかを考えていたら自然とあらすじを全部書いてしまっていた。申し訳ないとは思うけれど、『百年の孤独』のあらすじを説明したとしてもあれは読み味・語り味そのものに最大の魅力があるわけだからネタバレが面白さを損なうことがないように、あとめっちゃ分厚いから読みたいひと以外は読まないだろうし、ガンガンネタバレをやっていく所存です。未読者は回れ右してくださいね。
※以下、ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』に関する重大なネタバレがあります

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード)

夜のみだらな鳥 (フィクションのエル・ドラード)

百年の孤独』が「語り」における極北であるならば、『夜のみだらな鳥』は技法と構成における極北、と雑に語ることができるかもしれない――などという言葉は、居酒屋の井戸端会議程度には信用してもらっていい。真面目に検討されると困るけれど。
物語の舞台は世間から忘れられた修道院だ。地元の名士であるアスコイティア家の支援によって修道院は細々と続いているが、近々この修道院も競売にかけられる運命にある。その修道院には、「魔女に誑かされかけた為に修道院にこもった聖女」イネス・デ・アスコイティアの伝承が伝わっているが、その事実を示す史料は乏しく、アスコイティア家の現当主ヘロニモの妻、(聖女と同じ名前を持つ)イネスによるバチカンへの列福の嘆願も失敗した。昔は賑やかだった修道院も、いまや修道院としては落ち目であり、わずかな修道女と、たくさんの行き先を失った老婆や孤児、そして修道院で唯一の男〈ムディート〉が住んでいるのみで、彼らの行く末は誰もわからない。
ある日、〈ムディート〉は七人の老婆が孤児の一人を大事に扱っていることに気がつく。少女——少し考えの弱いイリス・マルテーナを囲んでなにやら秘密の会話に耳を欹ててみると、その少女は処女懐胎=妊娠しているのだという。老婆たちは生まれてくる赤ん坊を彼女たちの秘密の子どもとして、伝説に伝わる「目も耳も口も腕も足も失った怪物」インブンチェにしたてあげようと考えている。そして〈ムディート〉は、その秘密を知ってしまったがために老婆達の仲間入りをして、赤ん坊を隠すための修道院の秘密の部屋を提供する。かくして〈ムディート〉と老婆たちは〈魔女〉の役割を担いはじめる。
だが全ては偽りである。〈ムディート〉はイリスが夜な夜な修道院の外に出ていたのを知っている。彼が門の鍵を開けていたからだ。そして、イリスが外で町の男、巨大なお面を被って呼び込みのバイトをしていた長身の男〈ヒガンテ〉と関係を持っていたのを知っている。イリスは考えが弱いので、そのお面を被った相手なら皆同じ男と認識していた。そして〈ヒガンテ〉は、自らのお面を有料で人に貸してイリスと好き勝手抱かせていたのだ。自分自身もお面を借りたことがある〈ムディート〉は、イリスの妊娠が決して処女懐胎ではないことを知っているし、その子どもが自分の子どもであることを知っている。そして、修道院を所持するアスコイティア家の現当主、ドン・ヘロニモ・アスコイティアも、イリスと関係を持ったことを知っている。顔がなく、いまやウンベルト・ペニャローサという名前すら失い〈ムディート〉としか呼ばれないこの男、かつてはドン・ヘロニモの秘書であったこの男は、イリスの子=自身の子をドン・ヘロニモの子=アスコイティア家の嫡子として仕立て上げることを画策する。だが、〈ムディート〉は門の鍵を夜な夜な開けていたという弱みにイリスはつけこみ、イリスは〈ムディート〉に「子どもの父親」を探すように命令する。彼はイリスの手によって夜中に修道院の外に放り出され、雨に打たれて病気に伏せる。病床の中、看病をするシスター・ベニータへ話すうわごとというかたちで、彼は自分自身の過去を語りはじめる。
病床で意識が曖昧になってからはじまる筆致が実に奇跡的で、読者が触れる「彼の意識にのぼる世界」のなかで、次第に過去と現在の区別が失われ、曖昧になっていく。大昔、両親の望む立身出世とは裏腹に作家を志す青年だったころ、ウンベルトは偶然出会ったヘロニモから寄付を受けて自分自身の著作を出版することが叶い、その縁で彼は家族や恋人と縁を切ってなかば衝動的にヘロニモの秘書となる。彼はヘロニモによく尽くした。ある事件でヘロニモが暗殺されかかったとき、ウンベルトはヘロニモを庇って撃たれたほどだ。その事件において、ヘロニモはウンベルトではなく自分が撃たれたことを演出して「勇敢な政治家」という地位を獲得し、無事選挙に当選する。ここで行われたのは簒奪であり、ウンベルトの傷はヘロニモの傷となり、ウンベルトは所詮顔のない存在であった。その事を契機としたかどうかは定かではないが(ウンベルトの語りはもはや明確な道筋を失っている)、彼はヘロニモへの憎しみから(あるいはイネスへの恋慕から)、イネスの乳母である魔女のような老婆の手引きを経て、ヘロニモにかわってイネスの寝所に忍び込み、ヘロニモの代わりに彼女と寝る。その結果、不妊だったヘロニモとイネスの間に子どもができる。その結果生まれた子どもは、世にも醜い奇形であった。ヘロニモは待望の子どもが奇形であったことに強いショックを受けるが、同時にその無秩序を支配しようと試みた。彼はリンコナーダに外界と隔絶された「奇形だけが住む楽園」を作り、全国から世にも醜い奇形たちをかき集めて住まわせ、奇形のこども〈ボーイ〉が外を知る事なくそこで幸福に育つように計画する。そして、ウンベルトはその楽園の責任者として奇形たちを管理する役割を担わされた。
だが、彼はある日、体を壊し、奇形の医者の手で何十人もの奇形から輸血を受け、そしてイネスを寝取った復讐として、ヘロニモの陰部とウンベルトの陰部を交換させられる。彼は自らの語るところによれば「体の80%を奪われて」、そこから逃げ出し――描写を読んでいてわかると思うが、中盤を超えると物語は荒唐無稽な展開を迎えていき、もはや通常の意味での論理性を喪失している――20%だけになった〈ムディート〉は現在においてイリスの「まだ生まれていない赤ちゃん」となり――ここではもはや過去と現在がシームレスに繋がっている――彼は老婆たちが望んだように手足を縛られ「目も耳も口も腕も足も失った怪物」へと仕立て上げられていく――。
百年の孤独』はマジックリアリズム=どれだけ非現実的なことがあっても最後には「リアリズム」に落ちつく客観的描写・文体を徹底していたが、『夜のみだらな鳥』は主観的な描写・文体を突き詰めている*1。一人称の語り手による語りのなかで、過去/現在、自己/他人との区別が次第に失われていく筆致は見事である。両者の間の移行がすごく巧みであるのには構成の妙も十二分にある。モチーフの反復としての「魔女」(イネスの伝説/イネスの乳母/修道女の老婆)や「怪物」(インブンチェ/〈ボーイ〉/現在における〈ムディート〉のなれの果て)が、過去と現在の構図の反復、自己と他人の役割の肩代わり/簒奪、それに伴う名前の喪失、役割と存在そのものの隠蔽を巧妙に補助している。そして、夢うつつのままに語りが進行していく結果、信用できない語り手の問題が加わることで、正しいものが何一つなくなっていく。勿論、ある程度「おそらくこの部分は〈実際に起こった事実〉なのだろう」という予想はつくのだけれど、そのことはこの物語において大きな意味を成さない。たとえば、ウンベルトが「体の80%を奪われた」というのは現実的に考えれば比喩表現だが、時間軸での現在において赤ん坊となっている以上、それは事実奪われたのだ、と解釈するしかない。そして、この幻惑的な物語は、物語の終盤で現実に着地することで、より際立つことになる。リンコナーダの楽園に住む〈ボーイ〉の行く末、イリスのお腹の子どもの行く末、建て壊されようとしている修道院の行く末。混沌そのものとすら言える物語の結末として待っている最後の一文は、安らかな眠りのような静寂に満ちている。

*1:ちなみに、『百年の孤独』と『夜のみだらな鳥』を翻訳した鼓直氏は、2018年3月27日の寺尾隆吉さんとの対談で「『夜のみだらな鳥』の方が翻訳しやすかった」と言っていた(参加して聞いてきた)。