真っ白な館

思い付いたことを書きます。

レイナルド・アレナスを概観する(2019年初稿、2024年一部改稿)

ウェブ公開にあたっての前置き・補遺

この記事は2019年に『カモガワGブックス vol.1 非英語文学特集』へ寄稿した文章の再掲です。
whiteskunk.hatenablog.com
カモガワGブックスを主宰している鯨井さんは、『SFマガジン』2024年12月号(2024年10月25日発売)の「ラテンアメリカSF特集」の監修を担当されました。僭越ながら私もレビュー3本(『百年の孤独』『めくるめく世界』『コスタグアナ秘史』)の執筆で協力しています。

その鯨井さんが、先日こういう投稿をなさってました。
数年越しに思い出していただけるのは大変ありがたいことで、せっかくなので少しでも賑やかしになれればと思い、当時執筆した原稿を公開させていただきます。

補遺

執筆後の5年間での大きな変化としては、"El palacio de las blanquisimas mofetas"が『真っ白いスカンクたちの館』として邦訳されたことでしょう(2023年、インスクリプト社)。ペンタゴニア五部作のうち、これで邦訳は三作。残り二作も早く翻訳されてほしいところです。

誤字脱字や些末な言い回しを改めることは少し行いましたが、本記事内の内容は大筋の部分で2019年当時のままです。そのため、執筆当時未訳だった当該作品の内容は(読めていないので)あまり踏まえていません。ご容赦ください。なお、上記新訳の発売にあわせ、邦訳表記を『真っ白ないたちどもの宮殿』から『真っ白いスカンクたちの館』に改めました。
また、記事内の注釈にもある仏メディシス賞の件は、私の調査不足が原因でその後も詳しく調べられていません。当時の新聞記事などをサルベージすれば詳細を把握できるとは思うのですが、如何せんフランス語は不得手なもので……。もし詳細をご存じの方がいればご教示いただけますと幸いです。
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前文

  二〇一三年一二月一〇日 、池袋でラテンアメリカ文学トークイベントが開かれた。テーマは「政治危機と文学的想像力―いま、ラテンアメリカ文学を読むということ」 *1。折しもキューバを追放されたペルー外交官のノンフィクション『ペルソナ・ノン・グラータ』(現代企画室)が翻訳されて間もない頃だったので、トークの中でキューバ亡命者のレイナルド・アレナスも話題にあがった。その際、壇上にいた寺尾隆吉氏が聴講者の一人をみんなに紹介した。三年後の二〇一六年にレイナルド・アレナス『襲撃』の翻訳を担当する山辺弦氏である。山辺氏は当時まだ大学院生だったと思うが、アレナスをテーマに論文を上梓したのは聞き及んでいた。
 せっかくだったので、トークが終わった後の質疑応答で、山辺氏に「レイナルド・アレナスが後世に与えた影響はどの程度のものか」という質問を投げてみた。山辺氏からの回答はこうだ――「亡命者ということもありキューバ本国では大きな影響力は未だない」。さもありなん、というところである。たとえば、日本においてレイナルド・アレナスの研究はほとんど行われておらず、二〇一九年七月現在にciniiで検索して見つかるアレナスの日本語論文は僅か五本。そのうち三本が山辺氏によるものとなれば、日本におけるアレナス研究者は現在山辺氏一人と言っても過言ではない*2。そもそも、日本では翻訳の問題がある。英訳ならいざしらず(アメリカでは主要なアレナス作品は全て翻訳されている)、本邦での翻訳は五冊のみ。「レイナルド・アレナスって誰?」と疑問を持つひとも少なくないだろう。

 アレナスは四三年生まれのキューバ人、年齢としてはガルシア=マルケス(コロンビア、二七年)やバルガス=リョサ(ペルー、三四)の一世代下だ。アレナスがキューバ国外で名が知られるようになったのは六〇年代末あたりだ。『めくるめく世界』が六八年にフランスで、六九にメキシコで出版されたことで、評価が世界的に高まった*3。その発表がラテンアメリカ文学最大のベストセラー、ガルシア=マルケス百年の孤独』(一九六七年)とほぼ同時期ということもあり、アレナスもまた、いわゆる〈マジックリアリズム〉の系譜に属する作家とされている。ただし、後述の理由により彼が精力的に作品を発表するのは一九八〇年以降であり、時期がややずれることには注意が必要だ。
 マジックリアリズムの特徴とは何か。寺尾隆吉氏の著作から定義を借りた場合、それは概ね「非日常の視点から現実を捉え直した上で、その非日常的視点が個人のレベルでは完結せず、集団レベルまで伝播して一つの『共同体』を構築し、作品世界を満たす」ものとまとめられる。私なりの平易な言い方に直せば、「非日常的な出来事が発生しても、そのことが作品内では誰にとっても当たり前のものとして捉えられる」ことだろう*4 その意味で、アレナスの作品はたしかにマジックリアリズムと言えるだろう。たとえば『めくるめく世界』。これは一八世紀に実在したメキシコの神父セルバンドの生涯に関する物語だが、その最大の特徴は、作中の各章における語りに一人称・二人称・三人称の三つが入り混じっている点にある。三種類の語る内容は相矛盾し、時には荒唐無稽な記述が飛び交う。セルバンドは二千もの鎖で「睫毛の先まで」拘束されて牢獄に囚われたと思えば、鼠に変身して牢獄から抜け出してしまう。
 荒唐無稽という点では、他の作品も同様だ。『真っ白いスカンクたちの館』では冒頭で「死神」が語り手の家の庭で壊れた自転車の車輪を回している。『夏の色』では国家に迫害されるゲイたちが、海の底に潜りその歯でキューバを大地から切り離して浮き島に変える。『襲撃』の終盤で超厳帥の身体が何の伏線もなく突然機械と判明するのも言わずもがなだ。アレナスの作品群は、彼自身の人生と同じ様に、決して現実の檻に囚われず想像力をはばたかせる。
 アレナス自身は『めくるめく世界』についてこう語っている。

小説というのは読者の参加を求める一種の形式です。小説は多くの場合不完全なものですが、作者が読者に与える断片的ななにかです。読者に課されているのは、一つの共謀めいた作業です。(中略)……一冊の書物にできる最大のことは、読者にいくつもの考えや解釈を示唆することです。*5

 解釈の多様性を提示するという観点において、ここでアレナス自身が言及した『めくるめく世界』以外にも思いつく作品はある。〈ペンタゴニア〉第三部の『ふたたび、海』である。この作品の、特に終盤における展開は無視できない。
『ふたたび、海』は海沿いのリゾートで休暇を取る夫婦の六日間についての物語で、前半では彼女がリゾート地での夫と隣人の少年との浮気を疑う姿が、後半では彼が実際に何をしていたかが、それぞれの視点で描かれる。本作の特筆すべき点は、最後の最後で読者の前提をまるっきりひっくり返すことにある――原書でも三七〇ページを超えた最後のページで、作中の半分で一人称の語り手として描かれた妻の存在が、どうやら夫の空想の産物だったと判明するのだ。その場に当たり前のように存在したはずのキャラクターが急に消失する、それまで自明視していた登場人物が突然否定される事態を前に、読者はそれを自分自身で飲み込み、解釈する必要性に迫られる。 アレナス作品が抱えるこういった「難しさ」は、「ポストモダン文学」というざっくりしたジャンルにカテゴライズされやすい作品群が、しばしば一定の読者から好まれづらいことの具体例と言えるだろう。自分の読んでいたもの・信じていたものがなんだったのかを読者が自発的に解釈するのは読書体験において決して特別なことではないが、アレナスの作品は時折、読者にそれを強いてくる。その意味で、アレナスと読者の間には常に緊張関係が存在する。
 であれば、はじめてアレナスに触れる読者は、どのような観点からアレナス作品を捉えればよいのか。

アレナス作品の特徴――空想、分身、家族

 邦訳済みのものに限っても、作品群を俯瞰すれば、いくつかの特徴は自ずと浮かび上がってくる。

〈①表現と語りの瑞々しさ〉

 まず目につくのは、鋭く純真な詩的表現の数々だ。語り手が少年に設定された『夜明け前のセレスティーノ』や「花壇のなかのベスティアル」「アルトゥーロ、一番輝く星」、「目をつむって」などはその特徴が顕著で、語り手の視点から映る世界がシンプルに、純朴に、瑞々しく描かれる。
 それは情景描写に限ったことではない。アレナスの感性は、ある人物から他の人物に対する切実な感情を読者に対して鋭くぶつけてくる。流暢に、滔々と。その意味で、アレナスの既訳作品で完成度が最も高いのは「物語の終わり」である。キューバ亡命者の語り手の男は、フロリダ州キーウエストの合衆国最南端地点に立ち、死んでしまった「君」にひたすら語りかける。邦訳でもわずか二〇ページ程のこの短編では、キューバから亡命しながらもアメリカに馴染めなかった二人の人間の、祖国に対するノスタルジーが愛憎入り交じるかたちで描写される。訳者の杉山勉氏は本作を「現代スペイン語文学が生み出した最高の成果の一つ」と断言しているが、想像力がニューヨークとキューバの境目を作品世界の中で消し去ってしまう手際は傑作のそれである。

〈②語り手の分身〉

 ただし、「モノローグ」という形式には、ある種の制約がつきまとう…一人の視点からしか世界を語ることができないのだ。そのため、アレナスは意識的には無意識的にか、ある手段を用いてその制約から逃れようとする――「語り手の分身」を登場させるのだ。
 それは『夜明け前のセレスティーノ』ではセレスティーノ、『真っ白いスカンクたちの館』では「フォルトゥナート」、『ふたたび、海』では妻。『夏の色』ではモノローグという形式から外れるが、ガブリエル/レイナルド/「怯えたいたち」の三人は作者自身の分身である。「物語の終り」に出てきた語り手と「君」も、設定上はともかく構造上は、アレナス自身を別個の人間にそれぞれ投影したものと解釈することは可能だ。主要な他者は本質的に自分自身である。
 更に言えば、彼の綴る物語の最後では、他者=自己が死ぬ/消滅する/いなくなることが少なくないのも特徴の一つである。そこにおける死とは同時に再生であり、自身と他者は最終的に同一化が図られ、そして実現される。結果、アレナスの作品世界はある種のナルシスティックな雰囲気が常につきまとう。他者との交流に不可能性を感じながら、自身の分身とは交流に可能性を見出すからだ。

〈③家族〉

 一方で、この文脈で作品を見た時に、唯一例外とも言える属性が存在する……家族、特に両親である。『襲撃』における母殺し、あるいは「ハバナへの旅」における父と子の近親相姦。親とはある意味で自分の分身でありながら(正確には自分自身が親の分身なのだが)、しかし決定的な他者である。『夜明け前のセレスティーノ』の中での母や祖父母などの描かれ方からみても、アレナスの家族に対する感情にはある種の屈折が見え隠れするのはたしかだ。

アレナスの生涯と作品の関係――抑圧、亡命、望郷、自由

 作家と作品を重ねて解釈することは必ずしも是とはされないが、アレナスの遺作『夜になるまえに』自体が極めて完成度の高い自伝文学ということもあり、決して避けることはできない。ここまでの諸要素はあくまでアレナス作品全体を俯瞰したときの、作品レベルでの共通点だ。では、それらをレイナルド・アレナス個人の一生と照らし合わせると、それらはどのような意味を持つのか。

 アレナスは四三年にキューバの片田舎で生まれ、祖父母や親戚と同居する大家族の家で生まれ育つ。アレナスは私生児であり、父とは幼少期にたった一度会っただけだという。田舎での生活は子供の頃に終わり、青年期になると一家は農村の土地を売り払い、より都会に近い場所に引っ越す。当時は一九五〇年代、折しもバティスタ政権に対する革命運動が起きていた頃であり、アレナスは革命軍に加わるため齢一四歳で家を飛び出す。しかし革命軍への参加は当の革命軍兵士たちによって拒否され、翌年には実家に戻る。この辺りの、幼少期での生活の様子は『夜明け前のセレスティーノ』に、青年期の生活は『真っ白いスカンクたちの館』に色濃く反映されている。
 その後数年間は会計士としての勉強を重ね、やがてキューバ危機のあった一九六二年にハバナ大学へ進学。翌年には国立図書館の朗読コンクールに「からっぽの靴」を応募。それがコンクールに入賞したことで、アレナスは作家としてのキャリアをスタートさせた。以後、彼は国立図書館に転属となり、一般には中々触れる機会のない海外の傑作に触れることで、創作の肥やしとしていたらしい。そして彼は六六年~六八年にかけて『めくるめく世界』『夜明け前のセレスティーノ』『真っ白いスカンクたちの館』を発表。今でも名高い作品群は彼の名を世に知らしめることになった。
 一方でそのことは、アレナスに対する迫害の始まりでもあった。作品そのものの奔放さや、彼の作品に多かれ少なかれホモセクシャル的な作風が全面に出ている事実は(なお、彼は同性愛者である)、キューバ当局がアレナスを反体制的人物と捉えさせるのに十分だった。彼が自作を友人に頼んで自分の作品を国外に持ち出してもらって出版してもらったという経緯も、キューバ当局からの風当たりを一層強くさせた。
 七〇年代は、彼にとって地獄の十年間だったと言える。キューバが反体制的な作家に対する弾圧を強めた時代だからだ。パディージャ事件に代表されるように*6キューバ国内での「反体制的」な知識人層への抑圧は激しさを増す。アレナス自身も図書館の仕事を追われ、七〇年代中盤には未成年を誘惑した角で投獄。釈明の際には自己批判の文書に署名をおこなわざるを得なくなる。また、抑圧とはまた別の苦難として、七六年には文学の師匠とも言える存在で同じくキューバから弾圧を受けていたホセ・レサマ=リマが、七九年にはビルヒリオ・ピニェーラがあいついで亡くなった。
 この頃のアレナスの苦難として象徴的なのは、『ふたたび、海』に関する一連の出来事だろう。現在出版されているのは第三稿であり、過去に書かれた初稿・二稿はおそらくこの世から失われた。六九年に完成した第一稿は、友人の家に預けていたところ消失(アレナスは友人が当局に明け渡したと考えていた)。そのため、新しく二稿を書きはじめ、七一年には実際に脱稿までこぎつけたが、その第二稿もまたキューバ当局によって押収されてしまった。その後、三度目の原稿を書き始めたところ、それは七四年に完成。キューバ亡命後の八二年にようやく出版の日の目を見る。この、「同じ作品を何度も書くことになった」という経験は、『夏の色』における「レイナルドという男が『夏の色』という原稿を書くたびに奪われ、紛失し、ふたたび書き始めることを何十回と繰りかえす」というエピソードにそのまま反映されている。
 その後、八〇年に一大事件が起きる。ペルー大使館への集団亡命事件を機に、カストロキューバからの国外亡命を一時的に全面許可したのだ。出国の出口だったマリエル港は多大な混乱に見舞われたが、アレナスはその中でも運良くフロリダ州への亡命に成功する。彼は抑圧から解放されてやっと幸福な人生を手に入れることができた――と言えればいいのだが、現実はそうはならなかった。キューバ国外にはカストロ政権の擁護者がその当時も多く、カストロに半生を奪われたアレナスにとって彼らは決して相容れない存在だった。アレナスは左派知識人層と真っ向からぶつかり、そして烈火のごとき批判を浴びせていく。当然、彼はアメリカの知識人層から白い目を向けられることになった。その辺りの事情はハイメ・マンリケ『優男たち』に詳しい*7が、そもそもとして、アレナス自身が『夜になるまえに』の中でわずかに言及しているように、彼がアメリカ/資本主義そのものになじめなかった部分もあるだろう。「物語の終り」で描かれる、「キューバを憎みながら、アメリカにもなじめずキューバを強烈に恋い焦がれる人物」の源泉である。

 もっとも、作品発表という意味では、レイナルド・アレナスはこの頃たしかに自由だった。キューバ時代に描きためていた作品群を発表することができたし、八〇年代中盤には、客員教授としていくつかの大学で教鞭を執ってもいる。だが、八七年に彼は自身がエイズを罹患していることを知り、入院先の病院で一時危篤状態に陥った。当時のエイズとは不治の病であり、アレナスはこの頃死を覚悟したことで、残りの三年間を〈ペンタゴニア〉五部作の完結と、『夜になるまえに』の完成に費やすことになる。
『夜になるまえに』の序章「はじめに/おわりに」はこのように締めくくられる。

 病院からアパートに帰ったとき、一九七九年に死んだビルヒリオ・ピニェーラの写真が貼ってある壁まで這っていき、「ぼくの頼みを聞いてほしい。仕事を仕上げるのにあと三年生きていないといけないんだ。ほぼ全人類に対するぼくの復讐となる作品を終えるのに」と話しかけた。何を図々しいことを要求しているのだと言わんばかりにビルヒリオの顔が曇ったように思う。そんな捨て鉢な要求をしてからすでにほぼ三年がたった。ぼくの最期は差し迫っている。最期の瞬間まで平静でありたい。
 ありがとう、ビルヒリオ。

 そして、彼はこの宣言通りに、五部作のうち最後の一作であった『夏の色』を書き終え、自伝『夜になるまえに』を仕上げた。最後の方は全身に癌が転移している状態だったという。そして、一九九〇年一二月七日、かれは自宅のアパートで自殺する。


 これらの伝奇的事実から見えてくることは何か。
 一つは、アレナスは自身と作品との距離が極めて近い作家ということだ。彼の人生を踏まえたときに〈ペンタゴニア〉五部作を解釈すると、彼の言う「キューバの隠された歴史」とは当然彼自身がキューバで被ってきた抑圧の人生そのものに他ならない。彼の作品内で語り手の分身がある種の空想として作品内に出てくるのもまた、アレナス自身の人格を分割させたものと捉えることが可能となる。
 そして、彼が作品や想像力に託したものとは、物語の力を以て現実を超えようとする試みに他ならない。それは、「抑圧からの逃避」であると同時に、キューバ国家との「抑圧との戦い」でもある。そして、彼自身はキューバから逃れた一方で、故郷キューバへの回帰を望んだ。彼の描く「自由」は極めて巨大な、そして何重もの意味が内包されている。
 であれば、彼の著作のうち最も〈自由〉な作品は、まぎれもなく『夏の色』だ。本作の中でキューバは建国五〇周年(執筆時点での未来)を迎えており、島ではそれを記念しての一大カーニバルがおこなわれている。ここで描かれるのは一切の抑圧に囚われない荒唐無稽作品世界と、それを堪能する自由な人々の姿だ。カーニバルに参加するために戻ってくる死者。列聖されるために死後「処女性」を確認されるゲイ。迫害の末に空を飛んで逃げだす者。死に瀕した母を持っている為にキューバから逃れられない男。キューバ国会図書館から盗みを働いた結果、スティグマとして額に女性器を植え付けられたゲイ。キューバから逃げだそうとする者を食い殺すために海に放たれている「血に飢えた鮫」は、キューバで最も美しいゲイと懇ろになって互いに絡み合いながら空を飛びかう。戯画化されたカストロが出てくるあたりは当然ながら風刺でもあり、前述のとおり「レイナルド」が作中で『夏の色』を何度も書こうと試みるのはまぎれもなくメタフィクションだ。戯曲を内包した百を超える断章群、円環を成す作品構造(序文は全体の六割ほどを過ぎた中盤に配置され、始まりと終わりが設定されていない)といった実験小説の要素さえ含む。
 アレナスは本作を指して「あらゆるものをからかいの的にした不敬な本*8」と述べている。彼の作品内でも一、二を争う奔放な長編であり、同時に死の間際に完成させたという経緯から、文字通り彼の人生の集大成でもある。

 以上、アレナス作品に共通するモチーフや手法、アレナス本人の生涯と重ね合わせた際の作品の意味づけを概観し、レイナルド・アレナスの作品の魅力を整理してみたが、百聞は一見に如かず。実際に作品に触れてみてほしい。入手難易度含め、『めくるめく世界』がもっともとっつきやすい。ただし、邦訳のうち最も優れた作品は『世界文学のフロンティア5 私の謎』所収の「物語の終り」である。絶版なので入手難易度がやや高いが、古本であればまだまだ見つかるので必読をすすめる。また、自伝『夜になるまえに』は、物語を語ることに一生を捧げた、一人の男の生の軌跡そのものであり、ぜひ読んでいただきたい。
 それでもやはり、『夏の色』なくしてレイナルド・アレナスの真価を捉えることはできない。同作ができる限りはやく日本語に翻訳され、多くの読者を魅了してほしい――と、尻すぼみながらも個人的な願望で本論を締めさせていただく。

 なお、本論中で言及している以下三作二作は本邦未訳のため注意されたい。
『真っ白いスカンクたちの館』:El palacio de las blanquisimas mofetas / The Palace of the White Skunks→二〇二三年、インスクリプト社より邦訳 
『ふたたび、海』:Otra vez el mar / Farrewell to the Sea
『夏の色』:El color del verano / The Color of Summer : The

*1:現代企画室からのお知らせ

*2:『夜明け前のセレスティーノ』『ハバナへの旅』『夜になるまえに』を翻訳した安藤哲行氏は二〇一四年に摂南大学教授職を退官している。

*3:『めくるめく世界』がフランスのメディシス賞を受けたという情報がアレナスの受賞歴として広く出回っているが、いささかの留保が必要である。まず、自伝『夜になるまえに』(国書刊行会、邦訳九七)内の記述は安定しない。本文中では「六九年にマルケスと共にフランスでもっとも優れた最高の小説」という記述はある一方で、メディシス賞そのものへの言及はない。受賞年の表記が六七年(四二〇頁)/六八年(表2部分著者解説)/六九年(四二七頁)と一定していない。また、メディシス賞の公式ホームページを確認したところ、アレナスの名は全く出てこない。そもそもフランス国外作品にメディシス賞が与えられるようになったのは一九七〇年以降であり、当該書籍内で記載がある受賞年よりも後である。インターネット上でフランス語の情報を可能な限り探索してみたものの、かろうじて見つかるのはキューバ生まれの作家アルベルト・ラウロによるアレナスとの会話の回想記事における’El mundo alucinante’ (Le monde hallucinant), qui recut a Paris le Prix Medicis du meilleur roman etranger'という記述であり、それ以外は、少なくともインターネット上において、レイナルド・アレナスメディシス賞を紐づける一次資料が一切存在しない。もっともこれは日本に限った話ではないようで、英語圏の文学事典"Latin American Writers:supplement 1"(二〇〇一)内のレイナルド・アレナスの項においては、やはり『めくるめく世界』が六九年にメディシス賞を受賞したことになっている。アレナスはメディシス賞を受賞したのかどうか、という問題に一旦の答えが与えられそうなのは、"Mona and Other Tales"(2001,Vintage International)の注釈1における"receiving a Prix Medicis nomination for best foreign novel"という記述だ。nomination、つまりノミネート候補であり、受賞自体はされなかったものの、様々な伝言ゲームの中でそれが「受賞」に置き換わったーーというのが実際のところではないかと考えている。ただ、筆者は伝記作家でも研究者でもないので、これらの推測が当たっている保証はない。

*4:魔術的リアリズムー二〇世紀のラテンアメリカ小説』に則るが、寺尾氏はここまで平易なまとめ方はしていないのでこの表現は谷林の文責による。そもそも、寺尾氏は同書において、魔術的リアリズムの歴史的変遷ーー二〇世紀前半にカルペンティエルアストゥリアスによる反西洋的な文学の在り方の模索から始まり、フアン・ルルフォを経由してマルケスの『百年の孤独』ブームで確立されるーーをまとめており、「魔術的リアリズム」の定義そのものには拘っていないことには留意してほしい。

*5:ユリイカ』二〇〇一年九月号八六頁より

*6:七一年、投獄されていたエベルト・パティージャが、釈放後に作家協会の会合で自己批判を読み上げ、「反体制的」な友人たちを名指しで告発した事件。どう考えても釈放を条件として仲間を売るよう迫られたとしか見えないこの出来事に対して、ラテンアメリカ文学界はカストロ政権を批判する者たちと称賛・沈黙する者たちとで大きな亀裂が入る。有名なのは、カストロ政権を強く批判するリョサと、カストロ政権と親密だったマルケスの二人だろう。詳細は寺尾隆吉『ラテンアメリカ文学入門』に詳しい。

*7:同書は、ハイメ・マンリケの視点から見たレイナルド・アレナスの人物像――彼の、キューバ政権に対するパラノイアめいた警戒心や、カストロを擁護するものに対する過剰なまでの攻撃性――が描かれており、第三者からのアレナス像を知る足掛かりとして大変貴重である。

*8:ハイメ・マンリケ『優男たち』より