真っ白な館

思い付いたことを書きます。

『宇宙戦争』を観て『完璧な夏の日』を思い出した話

※以下、『宇宙戦争』(スティーヴン・スピルバーグ、2005)と『完璧な夏の日』(ラヴィ・ティドハー、2013/邦訳2015)のネタバレを含みます
Netflixで『宇宙戦争』を観た。2度目。
www.netflix.com
いわずとしれたH・G・ウェルズ宇宙戦争』(原著1898)の映画化作品だ。原作の方は読んでないのでそちらとの比較は割愛。
すごい作品だと思う。変な作品かもしれない。トライポッド*1から襲われる人類。逃げ回る描写のおぞましさ。次々と人々が殺され、街と文明が破壊されていく。その状況を前にした家族――父親と、離婚した母についていった兄妹――の絆は、極限状況において殺伐さが増していく。家族らしい家族の絆はほとんどもたらされることはない。殺戮と侵略の場面を前に元々近くもなかったであろう親子の溝はどんどん深まっていくばかりだ。父親は子供を死なせないことに終始して子供の心を省みる余裕がなく、兄は父親を嫌っている。母と継父の家で共に暮らす妹のことは可愛がっている様子が見受けられるが、それも戦闘シーンで彼女を省みることなく離ればなれになる。ラストで父と息子が抱き合うシーンの欺瞞は語るまでもない。二人が喜んでいるのは互いが「生きていた」ということに対してであり、互いに対する愛情のそれではない。解釈の方法は様々であろうが、作劇のうえではそう読まざるをえない。極限状況において人間は翻弄されるだけであることを描いた、不思議な傑作であった。そんなことを考えながら観ていた。
特に印象的なのが、人類とトライポッドたちとの壮絶な戦闘を前に*2、兄は父親に「すべてを見届けたい、行かせてくれ」と懇願する。そのシーンを観ていて、『完璧な夏の日』のことを思い出した。バットマンやスーパーマンキャプテンアメリカやアイアンマンといったアメコミスーパーヒーローのような存在が現実に存在する世界での改変歴史ものの傑作*3だ。この作品のラストで、ある人物が、一番信頼していたであろう相棒に、今生の別れとなるであろう決断を許してほしいと求めるシーンがある。そこで挿入されるのがこのテキストだ。

いつの世でも、背を向けるときが別れのときだ。そのことを、われわれはよく知っている。われわれもそうやって、心の傷を増やしてきた。

自分を信頼してくれているとわかっている相手に対して、相手が最も拒むであろう決断を請うというのはおそろしく残酷だ。
相手は自分を愛しているとわかっている。だが自分はその相手のことを最優先に考えることができない。相手との別れを選択してでも、自分にはやりたいことがある。それを優先させるというエゴと残酷さ。そして、相手がそれをすべて理解したうえで、様々な葛藤、愛、怒り、悲しみ、それら全てを最終的に許容して、別れを受け入れるという選択をすること。その二人の間には大事な何かが存在する/存在したという事実、そしてそれでもなお、誰かが誰かを選ばなかった。
そういった展開を前にしてわきあがってくる、胸のうちにある感情をどう表現したらいいのか、自分にはわからない。せめて、そういうものを前に前後不覚に陥ったという事実を、こうして日記に残すくらいが関の山だ。

完璧な夏の日 (上下合本版) (創元SF文庫)

完璧な夏の日 (上下合本版) (創元SF文庫)

*1:ところで『あなたの人生の物語』(テッド・チャン、1998)/『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ、2016)に出てくる「ヘプタポッド」の命名はこれから来てるってことでよかったんですっけ

*2:戦闘シーンを実際には映さないあたりもこの映画の印象深いポイントだった。ところどころで、一番大事なシーンを「映さない」ということを多用しているように思う。前述のシーンしかり、妹に目隠しをさせて子守歌を歌わせるシーンしかり。

*3:この世界では、ヒーローが存在しても世界の歴史を変えることはなく、ナチスは虐殺をおこない、ベトナム戦争は起き、世界貿易センタービルは崩れ落ちる。超人たちは年を取ることなく、変わらない世界に精神をすり減らせ、すべての終わり、あるいは永遠に変わらない完璧な夏の日を追い求める。