真っ白な館

思い付いたことを書きます。

普通の人が起こしかねないミスで子どもが死んでしまった(かもしれない)おそろしい世界について

通園バス内に3歳女児 死亡確認 約5時間置き去りか 静岡 牧之原 | NHK
最終的な刑罰は司法の判断を待つ以外になく、それでもニュースで流れてくる限りでは幼稚園側が二重三重に確認を怠って、それが結果として死者を出してしまったということで、社会的に見ても許しがたいことだろう、と思います。
で、記者会見です。ブクマにこんな呟きが流れてきました。


この記事に自分は以下のとおりブクマしました(2022/09/08 19:54に以下コメントを削除して本記事へのリンクに書き換えてます)。

大きな企業だと記者会見の為にメディアトレーニングのプロ雇って社長に指導してもらう位には高ストレスの場での振る舞いって難しいので、あんまあげつらってもなーとは思う(この方への印象は実際最悪だし)

今日の日記は、なんでこういうコメント書いたかについて。

「なぜ」について

この呟きが流れてきたときにまず考えるのは「なんで笑ってるの?」なんですよね。普通笑わないじゃないですか。普通の反応じゃない。
で、これに対して、「怖い」という反応。
まあ当然なんですが、もし可能であれば、「怖い」で終わらせずに「なぜ」を問うてもいいんじゃないかと思いました。
たとえば、上記ツイートの引用RTを軽く掘って見かけたコメントは以下のようなもの。

狂ってるな/楽しそう/コイツは始末しないと/次の被害出る前に極刑希望/キチガイ/生きてる価値なし/サイコパス老害じじい

怒りを覚えるのは当然の反応だとは思います。ただ、少なくとも幼稚園を運営する程度には育児に携わってきた人間が、子どもの死に無関心ってことはないだろう(しかも殺したのは自分ですよ)。正常化バイアスかもしれないけど、Twitterで流れてきた画像1枚、文脈も何もかも切り離された状態で出てきた1枚だけで、死ねとかキチガイとか生きてる価値なしとかサイコパス老害じじいとかその手のコメントが引用RTで数百あるのを見ると、この現象は苛烈すぎないか、と自分は考えてしまった。少なくとも、自分は上記の画像を見て

  • ①人が死んだのにもかかわらず他人事として捉えている
  • ②高ストレス下における防衛機制で笑って誤魔化そうとした

のどちらかを想定し、他人事にしても「笑う」まではいかないので、②の可能性は十分ありえるな、と考えた。

「加害者の悪魔化」について

つまり、これ本当にただ「怖い」で済ませていい問題なのか、少なくとも第三者である自分は、まずこの人の思考回路とか振る舞いとかをもっと突き詰めて考えた方がいいんじゃないかと思ったんです。
たとえば、この幼稚園は、記者会見を開く程度には説明してるし、言ってること自体にごまかしはなかった*1。その時この人が何を内心で考えているかとかは、刑事裁判・民事裁判の両面を通して司法の中で判断しても遅くはない。非難することは、社会の構成員として他人の振る舞いにNOを突きつけるという意味では大事だけど、「自分が今この瞬間にやるべきことなのか」は、加害者を悪魔化して石を投げる前にもっと多くの人が考えてもいいのではないかな多くの人というのは他人任せでよくないな。自分のやるべきことは非難ではないな、と思った。もちろん、他の人には強制しないです。「自分に子どもがいるから他人事ではいられない、この人が許せない」と思うのは当たり前の反応です。ご遺族の方や、この学園に子どもを通わせていた人だったり、あるいは今保育園や幼稚園に子どもを預けてらっしゃる人々は他人事ではいられないでしょう。
なんでそういう捉え方をするか。
もしかしたら、これは自分が人間の善意を信じすぎているのかもしれず、他人の悪意の恐ろしさを理解していないだけかもしれませんが、パッと見た時「他人事だから笑ってる」とは思わなかったんですよ。サイコパスって意見もたくさん見ましたが、現実問題として、社会の大半は普通の人*2で、「サイコパスが不注意で他人を害する事例」と「普通の人が不注意で他人を害する事例」であれば、後者の方が圧倒的に多いですよね(Wikipedia情報によると、人口におけるサイコパスの数は0.2%~4%、犯罪者におけるサイコパスの割合は8%だそうですね)。
そして、ニュースを見聞きする非当事者のほとんどが普通の人です。これって、明日は我が身だと思うんですよ。本件、ネットミームを使うなら「現場猫」でしょうし、社会人用語でいえばインシデントですよね。結果が重大で、かつ幼児が犠牲になったという悲惨な事件である反面、原因自体はおそろしいことに世間でも珍しくない案件だと思うんですよ。
つまり、自分が何かミスをすることで他人の何か大事なものを傷つけたり奪ったりするかもしれない。加齢による認知機能の低下、みたいな指摘もありましたが、これならなおさらです。人間は全員老いますし、老いに伴い認知機能は低下しがちです。そうしたときに、「子どもを殺す可能性があるのは自分かもしれない」。
そういう意味での自分事として、今回の加害者の言動から教訓を得るために思考を巡らせるのは大事だと思ったんです。普通の人が普通に生活する中で起こしてしまいかねないミスのせいで子どもを殺しちゃうかもしれない、そういうおそろしい世界に私たちは生きているという前提でいた方がいいのかな、と。
その意味で、自分がこの件から得たある種の教訓と自分が判断したのが「高ストレス下において、人間は笑うべきでない瞬間に笑ってしまうことがあるので、気をつけないといけない」だったんですよね。これは「自分が過失で人を殺してしまったが為に記者会見に出なければいけなくなったとき、どう振る舞わなければならないか」みたいな特殊事例としての教訓ではなく、もっと日常的な、「ミスをしたときにどう弁明すれば、他の人に対して迷惑をかけたり、精神的に負荷を与えたりしないですむか」という、日常生活に絡む教訓の話です。
流石に論理が飛躍しすぎと思うむきもあるでしょうが、事故の原因と現状で判断されてる要因は「出欠確認・降り忘れ確認をしなかった」という、ワークフローの不徹底という「誰しもが日常的にあり得ること」なわけで、「加害者の振るまいから得られる教訓を日常レベルに落とし込んで社会の改善に還元する」ことは、「社会の一構成員として、社会的ルールを逸脱した人に怒りを向ける」ことと同じくらい大事なことだと思うんですよ。そういう日常生活の教訓に落とし込んで我が身をふり返る必要はあるのかなと。
どうでしょう。

最後に

……というのはもちろん自分の考えで、他のひと「ひとりひとり」がどう捉えてどういう解釈をするかは自由です。ただ、そういう「ひとりひとり」が積み重なった集合としての「みんな」の意見はどう見えているのか、そしてその中で更に自分が何かを言うときにどう振る舞うのかを一度立ち止まって考える癖をつけると、社会をもっと良くしていくことはできるんじゃないかなと自分は信じています(その上で怒りを表明するなら自分はいいと思う)。

*1:判断した根拠はバス置き去りで3歳園児死亡 幼稚園が記者会見【詳報3】園長「バス運行に不慣れだった」|FNNプライムオンラインの詳報3・4を読んで。ちょっと殊更何かを誤魔化そうとしている印象は受けなかった。ただしこれは主観です。

*2:無意識に「普通の人」という言葉を使いましたが、本当は「普通とはなにか」という問題もある。ただ、今回は思ったことを書き散らすだけの日記にするので、私は今回論じません。気になる人はコメントなりトラバなりブコメなりでご自身のご意見を述べてください。