真っ白な館

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「実在の事件の再現ドラマ」という体裁の「イカれた怪作」——『ジョンベネ殺害事件の謎』(2017)感想

怪作である。怪作以外の何物でもない。
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ジョンベネ殺害事件は、名前の通り、1996年にジョンベネという少女が何者かによって殺害されたという事件である。
必要最小限の概要だけ説明すると、96年の12月26日にジョン家の6歳の一人娘ジョンベネが自宅の地下室で遺体になって発見。当日朝にジョン家は娘が誘拐されたと通報していて、その晩あらためて自宅の地下室を捜査したところ、ジョンベネの死体が発見された。彼女は性的暴行を受けた形跡があり、現在にいたるまで犯人は捕まっておらず、様々な真相に関する推測が世間を度々賑わせている。
ジョンベネ殺害事件の謎』に関する前知識はこれ以上は不要である。なぜならば、それ以上の情報に一切の意味を持たないからだ。
本作は、ジョンベネ殺害事件を再現ドラマによって再構成し、真相を明らかにするドラマ、ではない。はっきり言って、こんな映画を作り上げたことが信じがたい。個人的には倫理観スレッスレであると思っている。
どういうことか。本作で映される映像は、「再現ドラマで登場人物を演じる予定の(地元出身ということ以外に事件とは無関係の)役者数十人による、『事件の真相はきっとこうだった』という憶測の発言の寄せ集め」である。この映画の中に、実在の人物の情報は、何一つ直接語られることがない。映像の一つも、録音音声の1つも、そもそも写真の1枚すら、本作の中には現れないのである。ドキュメンタリー映画のつもりで観た人間としては、衝撃としか言いようがない。
作品そのものより倫理観の話になってしまうが、「真相が明らかになっておらず、関係者も多数未だに生きている殺人事件」に対して、「きっとあの人が犯人だ」「いやこの人が犯人だろう」と、マスメディアで語るというのは大変大きな責任を伴う。なぜならば、それ自体がセカンドレイプ的な二次被害を生みかねないからだ。その対象が被害者家族であればなおさらである。しかも、この事件に関しては、証拠物件の不十分性や、遺体が自宅地下室で見つかったことなどから、被害者遺族の誰かが犯人であるという様々な憶測が、事件当初からわきあがっていた。しかしながら、物的証拠がないため、事件は犯人の見通しが立たないまま未だ未解決である。
そんな事件を題材にした本作では何をやっているかというと、「オーディションとおぼしき場における役者に対するインタビューで『自分はこの役を演じるために、この役の人物をどのように解釈しているか』ということを語ってもらう」という体裁で、何十人もの役者に、犯人は誰なのかという憶測をひたすら語らせ、その発言で映画をまとめあげたのだ。
役者が役に没入するために、役者なりに役の解釈をしなければならない……というのは、演劇等の経験がない自分のような人間でもよくわかる。しかし、その体裁を以て犯人が誰かという推測をドキュメンタリー的なものとして構築するというのは、かなりの範囲で倫理観すれすれなのではないか、と思わざるをえない。展開は更に本筋=殺害事件の真相からスライドして離れていき、俳優が自分の役を演じるために参考にした、自分自身の人生の物語を語りはじめる。ここまでくると、作品の本筋は、「殺害事件の真相はなにか」ではなく、「演じるという行為は一体なんなのか」にスライドしている。
なお、この話は、最終的に結論を出すことがない。この映画の最後の10分間では、これまで語ってもらった数十人の俳優たちが一つのセットに集結し、「何十パターンもの『ジョン家』のありよう」を同時に映し出す。現実と演技の境目がなくなっていく『脳内ニューヨーク』を連想させるような、現実と演技の境目がなくなっていく圧巻のシーンである。土キュメンタリーの形式を模しているようで、実際には『「演じる」とはなにか』『「何かを理解する」とはなにか』という部分に焦点がずれていくというのを前にして、自分が観ていたつもりのものは一体なんだったのか、そういった疑問が浮かんではやまない。異常な作品としか言いようがないものだった。いいものを観た。