真っ白な館

思い付いたことを書きます。

成熟を断たれることで成り立つ至高のジュブナイル――映画『ペンギン・ハイウェイ』感想

※本エントリは映画『ペンギン・ハイウェイ』のネタバレを含みます
映画『ペンギン・ハイウェイ』 予告2
「映画を見終わった後にずっと抱いているこの気持ちはなんだろう」という不思議な感覚、それはきっとアオヤマくんがお姉さんに感じていた不思議と近いものがある。それは理解の及ばないものであり、自らが未だ持ち得ないものであり、つまりは未知である。
未知はある種の憧憬がつきまとう。そして、ある種の未知は決して獲得しえないことを我々=大人は知っている。人間にとって世界は広すぎる。我々が生きている間に人類は宇宙の果てへは辿り着かないし、世界の物理法則をすべて解明することは不可能だ。
そうだろう?
――そうだろうか?
本当に?
この映画を観たあとも、本当にそう思うか?
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ペンギン・ハイウェイ』において、小学4年生のアオヤマくんは日々学び、日々様々なことを研究し、その中で出会った未知を解明しようと試みる。その研究対象は、〈海〉であり、お姉さんのおっぱい*1であり、水路の源流であり、世界の果てである。森見登美彦氏が自ら言うように、アオヤマくんにとって不思議なもの・未知なるものとして世界の果ては存在するし、お姉さんという存在もその意味で等価に未知なるものだ*2
アオヤマくんは終始、お姉さんにひかれていく。自分にとって未知な感情をもたらす女性に引かれていく。
寝ているときのお姉さんの耳や、まつげや、お腹や、寝顔といったものを前にして、出所のわからない感情を引き出され、それを言葉にまとめることすらおぼつかない。
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したがって、アオヤマくんが〈海〉の解明を一度は諦めたというのは、大人への第一歩であったはずだ。未知のものを未知と割り切り、その解明を理性的に諦める。お姉さんを守るという打算から、ハマモトさんとたもとを分かつ。理性的に物事を割切る態度だ。
だけど、お姉さんとの離別によって、アオヤマくんはお姉さんにふたたび会うことを、「仮説」によるものではなく、「個人的な信念」として確信する。
ペンギン・ハイウェイ』がおもしろいのはここにある。アオヤマくんは、お姉さんとの離別を経て信念を獲得するのだ。「世界の果て」と「お姉さん」が等価に置かれることの意味がここにある。
世界の果ては諦めることができても、お姉さんを諦めるという選択肢はアオヤマくんにはない。故にアオヤマくんはいつまで経っても世界の果てを目指し続ける。お姉さんに会うために。物語が終わっても、アオヤマくんが小学4年生であったころの気持ちを、忘れることは決してないだろう。これは(この映画を観た人間が全員抱くであろう)個人的な信念である。
成熟はここで断たれているが、それは単なる呪いではない*3
子どもが信念を持ち続けることは、大人にできないことであるという意味で、幸せなことである。子どもが子どもとして在り続ける作品、これをジュブナイルと言わずしてなんと呼ぼう。
ペンギン・ハイウェイ』は至高のジュブナイル作品である。
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『ペンギン・ハイウェイ』 スペシャルトレーラー

*1:ペンギン・ハイウェイ』をおっぱい映画としか言わない人間に関しては、目の前で交通事故に遭ったら死ぬまで救急車を呼ばないと決めているので、以後お姉さんのおっぱいに対する性癖の話はしない。

*2:厳密に言えば、リンク先にこういったことは書かれていないが、当日ティーチインを聞いていた人間として、その旨の発言をしていたことを補足する。

*3:ある種の呪いであることは否定しないが。いや、現実問題、映画を観ながら「これは性癖を植えつける映画だ……あっいや違う、これは呪いを刻みつける映画……それも違う! これは少年の未来を祝福する映画だ!!」と解釈が二転三転したんですよ。