真っ白な館

思い付いたことを書きます。

円城塔について

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私自身『文字渦』はまだ読んでおらず、今読んでいるのは『プロローグ』だ。5月末に『エピローグ』を読んでいて、その後『プロローグ』を読みはじめたが、なんだかんだで3ヶ月かかっている。そのようなスタンスの人間から見た限り、ここで出てくるルビ遊びは端的に「こんなことができる」以上のものはない、と思う。少なくとも、「紙の醍醐味」「出版人の本気を見た」などと言っているのは完全にずれている
円城塔さんの問題意識、のうち少なくともひとつ、は「文字を使って物語を作る上で、何ができるか」である。その点、紙でなにができるかは考えているだろうが、文字で物語をつづる上でそれが紙であることの必要性を論じていない。電子データで小説を渡しているのに紙でゲラチェックをやるのにTwitterで何度も疑問を呈している。というより愚痴ってる。版管理の話をよくしてる。プログラムで小説を書いてるのもよく見る。
たとえば、「シャッフル航法」という短編。13×4=52の文節に分解した文章をパーフェクトシャッフルしたものを並べた短編だ。どちらかというと詩に近い。最初の文章がどんどんバラバラになっていくにも関わらず、なんとなく読めてしまう文字という性質の不思議を示している、と言える。多分。たとえば「Φ(ファイ)」。1段落の文字数がどんどん減っていくという小説だ。この辺りは2015年の京都SFフェスティバル円城塔さん本人が執筆時に(さほど難しくない)プログラムを使って書いていることを公言している。プログラムを使うのはある意味での実験だろう。本人にとってその方が楽というのもあるかもしれない。

いま読んでいる『プロローグ』、これは作者曰く私小説らしく、円城塔さんが自らの書いている小説を分析するためにMeCabを使って自然言語処理をしたり、その過程でどんなプログラムを書くのか、その命名規則はどうすべきか、文字コードはどうするのか、『古事記』のテキストデータを手に入れるために6クリックかかったという愚痴、その他諸々の「『プロローグ』を書くときに何を考えていたか」をのべつまくなしに書いている。そこにあるのは小説が生まれる過程の生の姿であり、それ自体を物語に仕上げる物語という円環構造ができる以上、少なからずのメタ構造をとらざるをえない。ここまできたら「私小説」という枠組みに収まるのかという話は出ると思うのだが、私小説の定義を語るに私の知識は不足しているので割愛します。
プロローグ (文春文庫)

プロローグ (文春文庫)

そのような形式をとる結果生まれるのが、「キャラクターが生まれる過程」について語るキャラクターの登場である。キャラクターが自らの書かれた小説について語り出すというのは冷静に考えるとよくわからない気もするが、よくわからないものをよくわからないままに読むというのは人間が物語を触れる際のごくありがちなスタンスなのではなかろうか。どうも世間の多くの人間は文章を読むことができないらしいし。そこをストレートにやったのが、人間とキャラクターの間に区別がなくなった(できなくなった)高解像度宇宙で、人間/キャラクターが物語を使って高次存在と戦う姿を描いた『エピローグ』なのだが、会社の昼休みにこの記事を書ききれなくなるので、まあその辺はさっさと読んでください。
エピローグ (ハヤカワ文庫JA)

エピローグ (ハヤカワ文庫JA)

つまるところ、円城塔さんがやりたいのは『「物語」についての物語』、とは言えるかもしれない。ルビ遊びもプログラム生成のフィクションも、私小説を書く私小説も、キャラクターと物語についてのフィクションも、全てはその延長なのだ。と思う。知らんけど。いや「知らんけど」って留保入れないと語るのこわいんですよね、円城さん。自分より詳しいひとたくさんいますし。「知らんけど」って入れるのが逃げという批判は甘んじて受けます。
なんか間違ったこと書いてたらツッコミ入れてください。よろしくお願いします。