真っ白な館

思い付いたことを書きます。

エドガー・ライト『ベイビードライバー』(2017)


映画「ベイビー・ドライバー(原題)」日本版予告 ᵔᴥᵔ Kool ※英語版の有志私家翻訳版
公式HP
以下ネタバレ
コルネット三部作、なかでも『ホット・ファズ』においてテンポ操作の卓越した技術を証明したエドガー・ライトが音楽にあわせてノリノリに踊って車を走らせる男の話を描いて、かみあわないはずがないのである。この映画の冒頭6分の軽やかさと言ったら!
音楽にあわせて彼は踊る。家のなかで、コインランドリーで、車のなかで。鈍重な鉄の塊はベイビーの手にかかれば跳ね馬がごとく動き回る。これは『ベイビー・ドライバー』、ベイビーの映画であり、人生とか生活とかそういうものに囚われているとかいないとか、そういう成熟した悩みは無縁である。ベイビーに名はなく子供《ベイビー》だからベイビーで、自らの仕事が善か悪か、根本的には(葛藤が描かれないという意味で)興味がない。それはベイビーを受け入れたデボラにとっても基本的にはあてはまる。犯罪者を受け入れるか受け入れないか。主題はそこに置かれることはなく、そもそも置かれる理由がない。
だが、というかそれ故に、その軽やかさは、人の死によって損なわれる。人の死は彼を迷わせ、迷いは車を鉄に戻し、それは常に車と車の衝突のかたちをとって現れる。車は彼の世界であり、車を失うことは世界を失うことである。立体駐車場から墜落したとき、車は重力を取り戻す*1。それは現実への回帰であり、車との訣別である。あれは本当に現実なのだろうか? そう思うくらい、あのラストは輝いている(きれいすぎる、と言ってもいい)。車のある世界から抜け出すという選択はベイビーがベイビーでなくなるということであり、『ショーシャンクの空に』の真っ白な砂浜、あるいは『とらドラ!』のラストで大河が戻ってくるあの眩しさ、それらがラストが概念的に彼岸と変わらないという意味において二人の逃避行から先のシークエンスはあの世への旅路・ベイビーの葬列であり、この世でない場所は眩しすぎる。

*1:この、後半になればなるほど失速していくという問題に関しては、伏線芸がうまく機能しなかったということもあるだろう。主題だけの問題ではない。たとえば、カーチェイス後のコーヒーを買いに行く際の長回しで曲がベイビーの動きに対応しているのがわかりづらいという点(字幕の問題ではあるが……歌詞は翻訳すべきだった)、あるいは「次会えないなら俺は死んでると思え」と行った男が2度と出てこないあたりのブラックジョーク。郵便局の受付での会話で「雨の後には虹が出る」と言われ、ラストでは虹が出ていたという部分。そういった微に入り細を穿つ伏線芸は、どれだけ機能していたか(『ワールズ・エンド』で本編の全てが冒頭の6分の過去回想につまっていた事を思い出してほしい)。