真っ白な館

思い付いたことを書きます。

湯浅政明『夜は短し歩けよ乙女』感想

 およそ最高の映画であった。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)
 

京都の大学生である「先輩」と、彼が恋する「黒髪の乙女」の一夜の物語。原作小説は4本の連作短編で、春先の京都先斗町・8月の夏の古本市・秋の京都大学11月祭・冬のお見舞いにおける二人の様子を描く。映画はそれに準拠している。

最高の構成だった。先斗町下鴨神社→学園祭→お見舞いと場面が移り変わるにつれて、登場人物たちの服装や格好・場面場面の様子も全て視覚的・映像的に春夏秋冬と移り変わっているが、演出上はすべて「同じ夜」のことして描いている。京都を舞台にしているが、これらの多くは「嘘」である。下鴨神社の古本市は昼にしかやっていないし、学園祭も京大11月祭は18時ごろにほぼ全ての出店が閉まる。それらが全て夜に行われているように演出することで、一年の物語を一夜に収束したかのように見せる。映像だからこそできることだ、流石である……と思っていたところ、最後の最後に「先輩」および「黒髪の乙女」はそれらをすべて「一夜の出来事」と明言する。「本当はこうであった(一年の出来事)」という前提が、すべてそこで崩壊する。では、他の描写はどうなのか。心象イメージ的な描写、終盤に見ていた「先輩の夢」らしき描写は?あれは夢か?現実か?作中の描写すべてが、そのラストの一言ですべて「本当であった可能性」を開かせる。作中における現実と虚構の境が壊れるのだ。これはマジックリアリズムである。*1

登場人物が多いので先斗町のシーンはやや立ち上がりが遅かった印象があるが、古本市に入ったあたりで展開のテンポが一気に上がる。そしてラストまで一気に疾走していく。色々な出来事が後々伏線として回収されていく様は気持ちがいい。とくに、「りんご/鯉が同時に落ちる」「たまたま通りがかったもので」などの反復が典型的かつ巧い。とにかく細部が丁寧なのである。羽貫さんの「嬉しいかな」とか、東堂さんの娘さんが言う「私はエロ親父でも構わないから!」とか、さりげない台詞にラブい含意が含まれているし、李白さんの人間不信がお見舞いで解かれるといったサブプロットもちゃんとある。

なお、11月祭に韋駄天炬燵は実際に出現していた(屋外で炬燵を開く謎の集団が実際にいるのである。ただし多くの場合は吉田南キャンパス限定だった気はする)。

公開一週目(4月7日~13日)と二週目(4月14日~20日)でそれぞれ別の掌編小説が配布されるので、もう一度観に行こうと思う。

*1:ラテンアメリカ文学研究者・寺尾隆吉が『魔術的リアリズム 二〇世紀のラテンアメリカ小説』の中でまとめた定義に則る。彼は同書内でマジック・リアリズムを「1:非日常の視点から現実を捉え直す」「2:非日常的な視点が個人のレベルでは完結せず、集団レベルまで伝播して一つの『共同体』を構築し、作品世界を満たす」という2つのポイントでまとめている。私なりの言葉で平易に言いなおすと、「非現実的な描写が『当たり前の現実』として描かれ」「それが作中世界では『不思議なこと』でなく『当たり前のこと』として受け入れられている」、つまり非日常的な現実が作品世界においてあたりの現実になっているということである。その意味で、少なくとも『夜は短し歩けよ乙女』はその定義に合致しているのである。